桂 吉弥についてあれこれ
生まれる
昭和46年2月25日に大阪市北区の北野病院で生まれる。
豊中市で小学校3年生まで過ごした後、茨木市に宿替え。

茨木の小学校時代
茨木の郊外にできた新興住宅地なので、小学校のクラスも小人数だった。豊中のマンモス校では友達も少なかった幼き吉弥は、ジワジワと本来のいちびりを発揮しだす。山や川など自然も豊富ななかで、多くの友達と伸び伸びと育つ。もともと目立ちたがり屋の性格を活かして、児童会会長などになったりしていた。すぐかつぎ上げられるお調子者であるのは、この時から変わっていない。

中学時代
ブラスバンド部に入部する。別に楽器に興味があったわけではなく、顧問を務めていた松本先生という人の熱意、そして「学校も新しい、この新しいクラブをみんなで作っていこう!」という言葉にのせられて、入部することになる。目の前で人に熱意を持って話されると、ついつい乗せられてしますのが悪い癖である。ブラスバンドではフレンチホルンを担当する。3年生の時には指揮者も経験した。米朝師匠が大阪フィルハーモニーの指揮者をしたことがあると話をしてはるが、米朝一門では米朝師匠と私吉弥だけの経験だ。(^_^)ちょっと自慢である( ̄^ ̄)

高校時代
思春期というか、この時代はごっついパワーが有り余っているらしい。高校に入るとブラスバンドに目もくれず、体を動かすクラブをと、サッカー部に入部する。小学校の時に2年ほどやったことがあるくらいだったが、高校時代はサッカーしかしてなかったというぐらいにのめり込んだ。今でも、Jリーグにはちょっとうるさい。日本代表の試合は必ずチェックしている。友達をつかまえては解説したがるので、みんな一緒にサッカーを見てくれない。私はあまりうまくなかったが、高校時代の監督が、今Jリーグの審判をやっているというのがちょっと自慢である。

大学時代
1年の予備校通いの後、神戸大学に入学した。大学では、これといったことは考えていなかったが、何か人の前に出るクラブ(例えば演劇とか放送部なんか。まさか落研に入るとは...)に入りたいなと漠然には考えていた。落研主催の新入生歓迎寄席を見に行ったことから、私の落語家としての道が始まった。
その日、一番初めに見た出演者がめちゃめちゃおもしろかったのである。演目は「いらち俥」という人力車のでてくる話だった。落語を生で見たのは初めてだったが、たった一人でこんなおもしろいことがやれるのかというカルチャーショックを受けた。浪人時代が暗かったわけではなかったのだが、久しぶりに声を出して笑ったような気がした。あっと言う間に、入部を決める。

吉朝おっかけ時代
落研なので、落語会や若手の勉強会には行きまくった。おかげで留年も経験した。そこで今の師匠、吉朝の落語に出会うのである。おもしろいというのはもちろんのこと、師匠の落語には、他の人にはない細やかさを感じた。教育実習をして、教師への気持ちがちょっと薄れてきていた私は、吉朝師匠のところでこういう落語を学んでみたいと思うようになったのである。文句なくおもしろく、そして、きめの細かい落語を。入門しようと思っていると不思議なもので、高座に出ている師匠が、「早う、おいで。早う、おいで」と私に言うてるように思える。落語の途中でも、私の方を見ているように思えるのである。(たちの悪いストーカーの様だった)
入門したいという気持ちを手紙で書いて師匠あてに送ったのは、それからしばらくしてからだった。

落語家になって
入門する前は、まず見習いをやらしてもらうまでに2カ月、学校を卒業するまで約7カ月の見習いと、結構時間はかかったが、自分自身では別にたいへんなこととは思わなかった。それよりも見るものすべてが新鮮で楽しかった。米朝師匠のお宅で3年間の住み込み弟子をやったのも、そら毎日楽しい事ばかりではないが、今となれば本当にええ経験をさしてもらったと思っている。吉朝師匠の住宅事情と米朝宅に若い者がいないということで、落語や鳴り物の稽古は吉朝のところで、住み込みは米朝宅で、というちょっと変わった修行生活だったが、師匠が二人いるようで得した気分であった。



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